私の愛称のSevimama /セフィママは娘の闘病生活で看護師さんから呼ばれていたものです。
私にとって大切な愛称となった娘について書きます。
2008年3月7日に娘は帝王切開で生まれました。
この時バリでは新月でした。
髪の毛が天然パーマでイカリガタ、足が長くpapaそっくりな形の女の子でした。
うちの子世界一!(どこのご両親もそう思うのです)
しかしお腹にホチキスをして病室に戻ってきた私にpapaは赤ちゃん病気だから検査してもらってと突然言ってきました。
この為主治医のドクターに話しをしたとき確かに酸素量が少ないので検査をしましょうと言う事になり検査をした結果心臓に問題がある事がわかりました。
こういった場合直ぐにはわからずミルクが飲めなくなり気がつくパターンが多いそうです。
この為娘はNICUに直ぐに入れられていて翌日からそこへ通ってオッパイをあげる事になるのでした。
帝王切開で自分のお腹の傷の痛みより娘が心配でした。
もうホントに母は強です。
そんな間に小児心臓のドクターにたまたま連絡がついたようで直接検査に来てくれて娘の検査を進めてくれました。
娘は心臓のオペが必要だか体重が3キロ超えないと出来ないそうでオッパイも少しずつでも飲めたので1か月自宅へ帰る事になりました。
ここまでが生まれてから10日の間の出来事でしたかあまりのストレスと疲労で記憶があまりありません。
しかしずっと泣いていた事だけは記憶にあります。
papaは夢で他からバリの家が攻撃され私が矢に当たったので娘になにかあると感じたそうです。
バリ人恐るべしです!
このように何かと夢でみるのがpapaなのです。
結婚8年目にして突然出来た子供でした。
子供は欲しかったけど出来る人はには出来るし出来ない人には何をやっても出来ないので無理しないと言うスタンスでした。
娘が出来たのはバリ島でまた不思議な日でした。
バリのミンピリゾートが好きでバリへ帰ると良く行っていてその夜は友達のご夫妻とのんびり温泉につかっていてミンピの近くのお寺のお祭りだったようで大音量でマントラがかかっていました。
そしてマントラが終わるとフクロウの鳴き声がしていました。バリではフクロウが鳴くと誰かが妊娠してすると言われていて私はフクロウの鳴き声を聞き『誰かが妊娠するわー』と思っていたら自分だったと後から気がつくのでした。
これまたバリ島の不思議です。
つわりが分娩台までつづき痩せる一方でしたが仕事も忙しく夜までしていて食べては吐いている生活でした。
それでもお腹の娘は順調に育って良くお腹を蹴っていたし心臓が悪いなんて思いもよらなかったのでした。
あまりに元気で男の子だと思っていて男の子だったら龍と名付けるつもりでいたのでずっと龍ちゃんとお腹に話しかけていました。
良く動いていたのは男の子じゃないよーと言っていたのかもしれません。
退院して自宅での1ヶ月は病気が嘘じゃないかと思うくらいスクスク大きくなり私の誕生日にオペが決まりました。
その前の検査にはpapaも勿論だっこして同行してくれ待合室でお婆さんに『美人さんね』と言われご機嫌でした。
バリでは生まれてすぐまつ毛を切るとそのあと長く伸びると言われ娘も生まれすぐまつ毛をきりカールした長いまつ毛になりました。
他にも妊娠中にニンジンを良く食べると目の綺麗な子になると言われたりしていました。
まつ毛は義兄の子供が全員まつ毛が長いのでやろうと決めていました。
切る時は怖かったですがこれはホントにすごい長さになります!
この自宅での1ヶ月はホントに幸せな時間でした。
papaは帰ってくるとずっと娘を抱っこしててひとりで寝かせる事はありませんでした。
子守歌も作り良く歌って寝かしつけていました。
またpapaも私も疲れはてて寝てしまうと娘はひとりで目をさましてpapaや私を蹴ったりしないように向きをかえてひとりで遊んでいました。
そして、いつもニコニコ笑っていてたくさんおしゃべりをしていました。
生後1ヶ月とは思えない大人っぷりでした。
生後1ヶ月では笑わないともドクターに言われましたがめっちゃ笑ってゴニョゴニョおしゃべりしてました。
私はなんとなく娘は入院したらもう家には戻れないと感じていたのでした。
オペの日待機所にpapaが誕生日ケーキを買ってきてくれましたが食欲がなかった私は何もたべてなかったのでそのケーキを泣きながら食べたのでした。
こんな辛い誕生日はありませんでした。
娘は結局2回の心臓のオペをしましたが他の病気も併発し9月には死の宣告を受けたのでした。
生まれ半年です。
それからは毎月ICUの看護師さんが月誕生日をお祝いしてくれ私ができる娘の生きた証を残そとやりたい事は全てやろうと決めたのでした。
怖いとか出来ないなんて言葉は一切ありませんでした。
ICUでは毎日papaやママが呼吸器を着けた子供でもお風呂にいれる事をさせてくれたのでバリのフラワーバスで薔薇の花びらをいれ毎週末papaが担当していたり毎日足湯をして朝私も仕事の前に病室へ行きお風呂して仕事へ行き帰りに寄り夜ねるまで娘につきそう生活でした。
しかし毎日死の宣告であまりに気持ちがないドクターにはブチ切れコンコンと説教したりしていました。笑
守ると言う使命は母は強です。
そんなんで、ドクターや看護師さんとも良い関係をつくりホントは駄目でしたが私の友達や上司、親戚なども面会をさせてもらったりディズニーランドには行けないので友人のつてでミッキーマウスとミニーマウスに病院に来てもらったりしました。
勿論病院全体へも訪問してもらいました。
そして、ICUの個室にいたのでバリ料理とケーキを持ち込み誕生会までさせていただきました。
婦長さんや病院にかけあったりとにかく娘を記憶しておいて欲しいがためワガママをさせていただきました。
関わってくださったみなさんに感謝しかありません。
今度はなんですか?と言われましたが娘が私にやりたいようにやらせてあげてと言ってくれたのかもしれません。
とにかく出来ないと言われた事はありませんでした。
ホントに協力してくれた皆さんに感謝です。
元気に産んであげられなかったですが娘は私を選んで来てくれママとして思い残す事はないくらい全力で愛しました。
それが良かったかはわかりませんが娘が私にさせてくれたのだと思います。後悔がないように。
また亡くなる3日前からはICUに泊まらせてくれて後にも先にもご両親が3日間もICUに泊まるなどは無かったそうで周りの人の協力に感謝でした。
そしてpapaはバリでもう辛いからと義母に依頼してもういいよと天に召されるお祈りをしてもらったそうです。
3月30日papaと私に抱っこされ息が苦し中でもニッコリ微笑んで旅立ったのでした。
あの笑顔が全てでした。
私が『セフィちゃん』と言うとまた心臓が動き出しましたがpapaが『ママもう止めて』と。
もう辛く痛くない世界へいき輪廻転生。
娘とはまた会えた時ように娘とサインも決めています。
亡くなった日は病院でも大きなミーティングがありお世話になってドクターや看護師さんがほとんどいてみなさんで
娘を見送ってくれたのでした。
ある若いドクターは
『セフィちゃんは人が生きる80年をたった1年駆け抜けて生きたけれどみんなの心に残る一生だったね』と言ってくれました。
娘の為にドクターが涙を流していたのが私は嬉しかったです。
担当ドクターもお休みを返事して最後までみてくれました。
亡くなった時娘と一緒に行ってあげたいと思いましたがそれは許されなかったです。
それだけ娘はしっかりした子で本当に神様からの借り物なのだと思ったのでした。
papaは神様がセフィがあまりに可愛いから手元にに置きたいからと連れて行き今は神様のお手伝いをしていて彼氏は神様の孫だそうです。
そんな天使が私の娘のセフィヤです。
辛く悲しい反面幸せなママである1年23日でした。
バリ島でも日本で言うイタコさんに娘を降ろしてもらい話しを聞いたときホントはお腹の中で死ぬはずだったけど私を守る為に生まれたと言っていました。
娘の誕生から現在まで学びを忘れないようにSevimamaを使っています。
ちなみSeviyaはコーヒー(バリ人)とミルク(日本人)のハーフなので肌のいろもセピア色からきています。
またvを綴りにいれたのもpapaのこだわりです。
papaも良く病院の外で泣いていたそうですがpapaへのケマまで出来ずその後いろいろありましたがその分今娘への愛情もpapaへ2倍になったと説明してそれも受け止めてくれています。
それだけでありがたいです。
娘は私にいろいろ学びまた人を残してくれました。
また来世で娘に会いサインを交わしたいと思います。